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琉球王朝の終焉
 

琉球王朝の終焉

 1477年、13歳で即位した第二尚王統三代王尚真(しょう・しん)は琉球王国の申し子のごとく、その頭角を現してゆきます。中国、朝鮮、日本、タイなど7カ国と盛んに貿易を行い、それまで2年に一度だった中国貿易を年に一度に戻します。1492年には父尚円を祀るため首里城近くに円覚寺を建立して仏教を奨励し、1502年には円鑑池と弁財天堂(当時は朝鮮王から贈られたお経を納めるためのお堂)、天女橋を造らせました。また、1500年に石垣島で起こったオケヤアカハチの乱を鎮圧し、離島の隅々に至るまでその支配下に収めました。
 そしてなんといっても画期的だったのは、地方の按司をすべて首里城下に住まわせてあらゆる武器を取り上げたことです。これにより二度と地方按司の反乱は起きませんでした。護佐丸・阿麻和利の乱の教訓がここに生きていたのです。そして、長く平和な時代が続き琉球王国は黄金期を迎えます。
 1526年、尚真王は62歳でその生涯を閉じますが在位49年は歴代王の中でも最長で、尚真王の時代に確固たる中央集権国家が確立されたことからも、彼が歴史に残る名君であったことは疑う余地がありません。しかし、尚真王の最大の功績である「平和」が皮肉にも後の世に暗い影を落とします。
 尚真王亡き後も、尚清(しょう・せい)尚元(しょう・げん)→尚永(しょう・えい)と王位は引き継がれてゆきます。そして第二尚王統七代目尚寧(しょう・ねい)王の時に独立国家琉球王国は終焉を迎えます。
 1609年、かねてから琉球王国の中国貿易の利権を狙っていた薩摩藩が琉球王国に侵攻してきたのです。世に言う「慶長の役」です。100年以上泰平の世が続いた琉球では、すでに戦うことを忘れていました。戦闘に慣れた薩摩軍と対等に戦える訳もなく、無抵抗に近い状態で首里城は陥落しました。尚寧王は捕らわれの身となり、独立国家は終わりを迎えました。
 琉球が日本に征服されたことを中国に知られると貿易が続けられなくなるため、薩摩は琉球を存続させました。しかし、内実は絶対服従を誓わされ完全に支配された状態でした。日本の属国となった琉球はその後も存続しますが、1872年琉球藩となり、1879年の琉球処分で沖縄県となりました。
 薩摩に侵略されるという不運な運命を背負った尚寧王は、玉陵ではなく浦添城の「浦添ようどれ」に葬られています。薩摩の侵略を許したことを恥じて玉陵に入らなかったという説もありますが、実は尚寧王はオギヤカの計略で失脚させられた尚宣威(しょう・せんい)王の血を引いているのです。ですから尚宣威の孫である尚維衡(しょう・いこう)が居を構えた浦添城に墓があるのは当然なのかもしれません。それに玉陵に入らなければオギヤカに祟られることもないでしょう。