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悲劇の王女
 

悲劇の王女

 百度踏揚(ももとふみあがり)は尚王統第六代王尚泰久(しょう・たいきゅう)の娘として生まれました。琉球統一の英雄尚巴志(しょう・はし)は彼女の父方の祖父、母は中城(なかぐすく)城主護佐丸(ごさまる)の娘でしたから、護佐丸は母方の祖父、まさにサラブレッドの血筋です。また、伝説では絶世の美女として知られています。恵まれた境遇で生まれ育った踏揚でしたが、彼女には不幸な運命が待っています。
 このころ首里王府は琉球統一以来最も政権基盤が不安定で、台頭する地方按司の勢力に怯えていました。特に中城城の護佐丸と勝連城の阿麻和利(あまわり)は、王府に対抗できるほどに成長し、勝連城は日本の鎌倉のようだとも謳われています。踏揚の祖父である護佐丸は、琉球統一の際尚巴志と共に戦った盟友で、尚泰久にとって一世代上の頭の上がらない存在だったはずです。尚泰久が護佐丸の娘を妻にしたのも、こういった政治的背景があったためと思われます。
 そして踏揚も母と同様、政治の道具として勝連城主阿麻和利のもとへ嫁ぐことになります。この時、付き人であった大城賢雄(うふぐすくけんゆう)も踏揚と運命を共にして勝連城へと居を移します。
 やがて王府と地方按司たちとの緊張はさらに高まり、ついに阿麻和利が最初の行動を起こします。首里王府を抱きこんで護佐丸討伐を始めたのです。政略結婚とはいえ、踏揚にとっては夫が祖父の一族を滅亡に追い込む非情な争いでした。そして祖父だけではなく、夫が父も狙っていることを知った踏揚は大城賢雄と共に城を脱出、首里へと逃げ帰ります。
 夫の計略を父に伝えると、今度は父と夫の戦いが始まりました。戦いは父が勝利し、夫と勝連の一族は滅亡しました。王府軍を率いて阿麻和利を討伐した大城賢雄は、当然最大の功労者となり、その褒美が与えられるように踏揚は大城賢雄の妻となります。二度目の政略結婚でした。
 王国始まって以来の危機を乗り切った尚泰久でしたが、心労が祟ったのかこの出来事からわずか2年後の1460年に亡くなります。在位7年、46歳の若さでした。尚泰久の次に即位したのは尚泰久の三男尚徳(しょう・とく)でした。踏揚の兄弟です。
 尚徳王の時代も長くは続きませんでした。尚徳王は若くして謎の死をとげ、これをきっかけに尚巴志の築いた王朝は崩壊します。クーデターが起こり、王家の一族の粛清が始まります。夫の大城賢雄もこの激流の中で非業の死を遂げます。踏揚は玉城(たまぐすく)に逃れ、その後ひっそり余生を送ったといわれています。
 戦国の世とはいえ、自分の家族・親族が互いに争い、祖父の一族と最初の夫の一族が滅亡、兄弟の謎の死、そして最期には二番目の夫を含む自分の一族の滅亡と、筆舌に尽くしがたい辛酸と数奇な運命に翻弄された踏揚の人生でした。そして、悲劇の王女はあまり人目につかない玉城の小さな墓で静かに眠っています。