沖縄の世界遺産
沖縄の世界遺産 世界遺産 エピソード 登場人物 フォトアルバム サイトマップ
メニュー
北山の最期
  (ほくざん)

北山の最期

 北山の歴史は大変古く、そのルーツは舜天(しゅんてん)王統時代以前の神話時代に遡ります。舜天王統樹立以前に存在したといわれる天孫(てんそん)氏が今帰仁の出身と伝えられています。その後、天孫氏の子孫から怕尼芝(はにじ)一族へと王統は移りました。1322年に樹立された怕尼芝王統は中国貿易で繁栄し、今帰仁の全盛期を迎えます。そして怕尼芝王統3代目の王として君臨したのが北山最後の王、攀安知(はんあんち)でした。
 怕尼芝王統樹立以前からすでに三山の対立は始まっていました。攀安知が王位についた時代には三山はそれぞれ中国に使者を派遣し、海外貿易によって繁栄しその勢力を拡大していました。三大勢力の力が拮抗していたためか、三山時代は約100年も続いています。しかし、やがてこのバランスが崩れるきっかけとなる事件が起こります。
 1402年、佐敷(現在の佐敷町)の弱小按司(「あじ」と読みます。豪族のことです)であった尚思紹(しょう・ししょう)尚巴志(しょう・はし)親子が南東部最大勢力であった大里城(現在の大里村)を攻め、攻略したのです。
 これを足がかりに尚巴志は、わずか4年後の1406年、なんと中山の察度王統二代目の武寧(ぶねい)王を滅ぼしてしまいます。尚巴志は父尚思紹を中山王に即位させ、次第にその勢力を拡大してゆきます。中北部勢力の按司たちをその傘下におさめ、中山は着々と北山攻略の準備をすすめてゆきました。中部勢力の中には若き日の読谷(よみたん)按司、護佐丸(ごさまる)も含まれていました。
 1416年、ついに中山による北山侵攻が始まりました。しかし、北山本拠地である攀安知の居城今帰仁城は、琉球屈指の規模を誇り周囲を志慶真川の深い渓谷で守られた難攻不落の城でした。中北部連合の大群を率いて攻撃した尚巴志も、そう簡単に攻略することはできませんでした。そこで尚巴志は計略を練ります。敵軍の武将、本部大原(もとぶてーはら)を懐柔し、今帰仁城に篭城する攀安知を城外におびき出します。
 その隙に大原の手引きで城内に侵入した中山軍によって城は炎上。あわてた攀安知は城に引き返しますが、時すでに遅く今帰仁城は落城しました。失意の攀安知は城の守り神である霊石に恨みを込めて十文字に太刀をあびせたあと、その太刀で自らの命を絶ちます。こうして北山の歴史はその幕を閉じました。以降この城に王はいなくなり、かわって中山の使者である「監守」がおかれるようになりました。初代監守は、後に第三代王となる尚忠(尚巴志次男)でした。
 十文字に切りつけられた霊石は「受剣石」とよばれ現代まで今帰仁城に存在していましたが、残念ながら今は盗まれて見ることができません。太刀は「宝剣千代金丸」とよばれ、その後尚家の手に渡り、今は那覇市に寄贈されて重要文化財となっています。