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オギヤカの陰謀
 

オギヤカの陰謀

 第一尚王統が滅亡し、1470年金丸(かなまる)は晴れて第二尚王統初代王の座につきました。名前も尚円(しょう・えん)と改めました。もちろん金丸は第一尚家の一族ではありませんが、貿易の相手である中国皇帝には尚円は尚徳の子であると報告していました。クーデターで政権を樹立したというのは体裁が悪かったのでしょう。尚円は尚徳と親子ほど年が離れた目上ですので、尚円が尚徳の子であるというのはかなり無理のある話です。
 尚円は伊是名(いぜな)島の出身で、若い頃から尚泰久(しょう・たいきゅう)に仕え、王のブレーンとして長年働いてきました。もし、志魯・布里の乱によって尚泰久が王に即位しなければ彼が政治の第一線に登場することもなかったでしょう。もちろん第一尚王統にかわって第二尚王統初代王になることなど、彼自身想像もしていなかったはずです。尚泰久と同じ1415年生まれの尚円は即位したときすでに56歳でした。そして6年後の1476年、62歳でこの世を去ります。
 尚円には年の離れた若い妻がいました。この妻との間には子供がいましたが、尚円が51歳の時にできた子なので、このときまだ11歳、即位するには若過ぎました。そこで後継には尚円の弟である尚宣威(しょう・せんい)が即位することになりました。
 1477年尚宣威が即位して半年後、事件は起こります。琉球では王が即位すると半年後に神号を受けることになっていました(神号とは神から授かる名前のことです)。儀式の日、神事を司る女官たちは国王尚宣威を無視して、幼い尚円の子の賛辞を歌い始めたのです。これは尚円の子こそが王にふさわしいと神が告げているということを意味していました。
 この信じられない出来事に一同は呆然、尚宣威はショックのあまり王位を放棄して越来(ごえく)に隠居してしまいます。在位わずかに6ヶ月でした。さらにこの年、失意のあまり尚宣威は亡くなってしまいました。この前代未聞の事件を陰で操っていたのが尚円の若い妻、オギヤカでした。
 琉球では古来より政治は男、神事は女が司っていました。神事を司る女官をノロといい、組織化されたノロの頂点に聞得大君(きこえおおきみ)という最高権力者がいました。聞得大君はたいてい王の女兄弟などの家族が即位することになっていました。おそらくオギヤカは、この聞得大君を自由に操れる権力を持っていたと思われます。目的はもちろん自分の子を王位につけるためです。
 こうして尚宣威を失脚させたオギヤカは、我が子を第二尚王統三代王に即位させることに成功しました。そしてこの幼い王が琉球王国に黄金期をもたらす尚真(しょう・しん)王でした。とはいえ尚真はまだ13歳、政治ができるはずもありません。代わって実質的な権力を握ったのはやはりオギヤカでした。尚真が成長するまで、オギヤカは最高の権力者として振る舞い、尚真が成長してもなお大きな影響力を持ち続けました。
 首里城の西にある玉陵(たまうどぅん)は、先に亡くなった尚円王を祀るために尚真が造らせたものですが、これもオギヤカのさしがねでした。それを裏付けるように玉陵には呪いの石碑が今も残っています。そこにはこの墓に葬られる資格者が刻まれていて、意図的に尚宣威とその血縁者を除いています。そしてもし掟をやぶれば祟りがあるとまで刻まれています。自分と夫である尚円の血を引く者意外は、絶対に同じ墓に入れないというオギヤカの強い意思が表れています。
 ここで一つのミステリーを紹介します。玉陵は尚円王のためという名目ですが、実質的にはオギヤカが自分のために造らせたといっても過言ではない墓陵です。ところが不思議なことに玉陵の被葬者一覧の中にオギヤカの神号である「世添御殿之按司加那志(よそいうどぅんのあじがなしい)」の名前がありません。もちろん不明者も数多くありますのでその中に含まれているのかもしれません。しかし、ここにもうひとつの興味深い話があります。
 尚円が伊是名島の出身であることは先に述べましたが、伊是名島には尚円の血縁者を祀るための伊是名玉陵(いぜなたまうどぅん)という墓陵があります。なんとその中には「世添御殿之大按司宇喜也嘉(よそいうどぅんのおおあんじおぎやか)」と刻まれた石棺があるのです。オギヤカにまつわる話はどれもスキャンダラスで謎めいています。