琉球の歴史で最初の王統は天孫子(てんそんし)といわれていますが、まだ神話に近い時代でした。その天孫子を滅ぼした利勇(りゆう)を倒して1187年に王統を開いたのが舜天王といわれています。源為朝の子孫との伝説があります。舜天王統は二代目舜馬順熙(しゅんばじゅんき)、三代目義本(ぎほん)へと続きます。
舜天王統後に登場し、1260年に英祖王統を開きました。浦添城の「浦添ようどれ」に葬られています。英祖王統は二代目大成(たいせい)、三代目英慈(えいじ)、四代目玉城(たまぐすく)、五代目西威(せいい)と続きました。
英祖王統後に登場し、1350年に察度王統を開きました。初めて中国の歴史書に登場した人物です。歴史書に記されているのは中国と貿易などで交流があったためで、進貢貿易の先駆けでした。天女の子で、庭には黄金がたくさんあったという伝説があります。察度王統は二代目武寧(ぶねい)王へと引き継がれます。
察度王の後を継ぎ中山王となりますが、1406年、佐敷から台頭してきた尚巴志(しょう・はし)に滅ぼされます。浦添城最後の王ともいわれています。
攀安知(はんあんち)以前の北山王です。1383年に中国貿易を始めました。
今帰仁城主で最後の北山王です。1416年、尚巴志(しょう・はし)率いる中北部連合軍に敗れて自刃します。その際斬り付けた霊石が「受剣石」、持っていた剣が「宝剣千代金丸」と伝えられています。
他魯毎(たるみー)以前の南山王です。1380年に中国貿易を始めました。
南山城主で最後の南山王です。尚巴志(しょう・はし)の計略で金屏風と嘉手志川を交換したのをきっかけに家臣の信頼を失い、1429年尚巴志の中山軍に滅ぼされます。
第一尚王統初代王です。琉球史の英雄尚巴志(しょう・はし)の父で、若い頃は苗代大親(なわしろうふや)とよばれていました。父は伊平屋(いへや)島出身の佐銘川大主(さめかわおおぬし)です。佐敷から巴志と共に中央へ進出し、1406年、ついに中山王にまで登りつめました。
第一尚王統二代王です。1421年、父尚思紹(しょう・ししょう)の後をついで中山王となりました。佐敷の一地方按司から身を興して三山すべてを滅ぼし、1429年琉球王国を誕生させた琉球史上最大の英雄です。体が小さかったのか、若い頃は佐敷の小按司とよばれていました。首里城と周辺を整備し、首里城近くに庭園と龍潭池(りゅうたんいけ)を造らせました。
第一尚王統三代王です。尚巴志(しょう・はし)の二男で、1440年琉球王となりました。北山滅亡後、中山から派遣された初代監守として今帰仁城の『山北今帰仁監守来歴碑記』に名前が刻まれています。
第一尚王統四代王です。尚忠(しょう・ちゅう)の長男で、1445年琉球王に即位しました。
第一尚王統五代王です。尚巴志(しょう・はし)の五男で、1450年琉球王に即位しました。
尚金福(しょう・きんぷく)の子です。叔父の布里(ふり)と王権を争い、1453年志魯・布里の乱で亡くなります。
尚巴志(しょう・はし)の六男です。甥の志魯(しろ)と王権を争い、1453年志魯・布里の乱で亡くなります。
第一尚王統六代王で、尚巴志(しょう・はし)の七男です。志魯・布里の乱で王位継承者がいなくなり、1454年思いがけず 琉球王となりました。全焼した首里城を再建し、万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘を作らせました。また、護佐丸・阿麻和利(ごさまる・あまわり)の乱を治め王朝最大の危機を乗り切りました。
尚巴志(しょう・はし)の北山討伐軍に加わり、のちに琉球王府を守る地方按司の最大勢力となりますが、謀反の疑いをかけられ阿麻和利(あまわり)率いる王府軍に滅ぼされます。無抵抗で落城したため、忠臣の鏡として伝えられています。また、名築城家として知られ、座喜味城や中城城を現在の形にしました。
勝連城主で百度踏揚(ももとふみあがり)の最初の夫です。天下取りの野望を抱き、王府の力を借りて護佐丸(ごさまる)を滅ぼします。次に首里王府を攻めますが攻略できず、逆に大城賢雄(うふぐすくけんゆう)率いる王府軍の反撃にあいに滅ぼされてしまいます。
尚泰久(しょう・たいきゅう)の長女です。父方の祖父が尚巴志(しょう・はし)、母方の祖父が護佐丸(ごさまる)、最初の夫が阿麻和利(あまわり)、二番目の夫が大城賢雄(うふぐすくけんゆう)という、歴史物語に登場する多くの人物と関わりの深い悲劇の王女です。絶世の美女だったと言われています。
武勇にすぐれ、鬼大城(うにうふぐすく)と呼ばれていました。百度踏揚(ももとふみあがり)の付き人でしたが、尚泰久(しょう・たいきゅう)の命で阿麻和利(あまわり)を討伐し、のちに百度踏揚(ももとふみあがり)を妻にします。後に起こったクーデターで、第一尚の残党として粛清されてしまいます。
第一尚王統最後の七代王で、尚泰久(しょう・たいきゅう)の三男です。1466年に鬼界島遠征を行い、積極的に領土拡大を図りましたが、1469年、20代の若さで突然亡くなります。クーデター直前の出来事で毒殺説もあります。
第二尚王統初代王で、即位する前は金丸という名前でした。伊是名(いぜな)島の農民の出身ですが、若い頃から尚泰久(しょう・たいきゅう)に仕え御物城御銷側(おものぐすくおさすのそば)という要職に就くまでになります。次に即位した尚徳(しょう・とく)と折り合いが悪く一度は隠居しますが、尚徳亡きあと王朝内でクーデターが起こり琉球王に即位しました。
第二尚王統二代王で、尚円(しょう・えん)の弟です。尚円亡きあと1477年に即位しますが、オギヤカの陰謀で王位を退き、越来(ごえく)に隠居してしまいます。在位6ヶ月は歴代王の中で最も短く、しかもこの年に亡くなってしまいました。
尚円(しょう・えん)より30歳年下の若い妻です。我が子を王に即位させるために陰謀をたくらみ、尚宣威(しょう・せんい)を失脚させました。即位させた幼い息子に代わり王の権力を欲しいままにし、のちに息子尚真(しょう・しん)に進言して玉陵(たまうどぅん)と呪いの石碑を造らせました。
第二尚王統三代王で、尚円(しょう・えん)の長男です。1477年、11歳で即位しました。歴代王の中で最も長い50年間在位し、琉球に黄金期をもたらします。首里城周辺の整備、仏教の奨励、内政の強化、貿易の発展など、多くの功績を残しています。特に地方按司を首里城下に集め武器を取り上げたことで、100年以上の泰平の世を琉球にもたらしました。
波照間(はてるま)島の生まれで石垣島で勢力を伸ばしますが、1500年琉球王府軍に鎮圧されます。王朝の全琉支配に対する最後の抵抗勢力でした。
第二尚王統四代王です。尚真(しょう・しん)の五男で、1527年琉球王に即位しました。
第二尚王統五代王です。尚清(しょう・せい)の次男で、1556年琉球王に即位しました。
第二尚王統六代王です。尚元(しょう・げん)の次男で、1573年琉球王に即位しました。
第二尚王統七代王です。尚宣威(しょう・せんい)の孫である尚維衡(しょう・いこう)の血筋で、1589年琉球王に即位しました。 薩摩藩による琉球侵略で捕らわれの身となりました。浦添城の「浦添ようどれ」に葬られています。
尚真(しょう・しん)の長男で、尚宣威(しょう・せんい)の孫です。王位継承者の地位を奪われ、浦添城に居城しました。