『 勝連城は、五つの曲輪からなり、最も高い一の曲輪に上ると、北は遥か金武湾を囲む山原の山々や太平洋の島々が望まれ、南は知念半島や中城湾、それを隔てて護佐丸の城である中城城が一望できる景勝地になっています。
城は、琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利が住んだ城です。伝承によると城主は勝連按司から最後の城主阿麻和利まで10代と伝えられています。勝連城や城主(按司)について、沖縄最古の歌謡集である『おもろさうし』に数多く詠まれていて、勝連は"きむたか"(肝高)と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していたとあり、阿麻和利も「千年もこの勝連をおさめよ、勝連の名高き王」と讃えられています。
阿麻和利は、国王の重臣で中城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権はいちだんと安定しました。』